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すごくおもしろいです。

きわめるための話

何でもできてしまって何もできない

私は“勉強”が好きではない。理由は単純ではないけれど、ひとつとして、好きではないことを勉強することが好きではないからだ。好きではないことは学びたくないし、学びたくないことを学ぶことはしたくない。したくないことをするのは好きではないし、好きではないことはしたくないだろう。でも、好きではないことをしたくないのは皆そうだろうと思うから、理由になっているような、なっていないような。まあ理由なんてもともとあってないようなものだろう。ともかく、「私、勉強くんのこと好きではないし、シたくもないの。」そして、したくないことをしなくてはならないとしても、“やる気”は出ないだろう。「やる気が出ない。そんな時、君ならどうする? やる気が出ない。そんな時、僕なら諦める。」(mochilon 『やる気が出ない』より) したくないことはしたくない。だから私は、したくない勉強はしなかったし、したくないことを頑張ってする努力も、したいことを頑張ってしない努力も、殆どした経験がない、と思っている。けれども実際、客観的に見れば、私は、したくない勉強をしていたし、できていた。勉強だけではなく、したくない部活の練習も、したくない人付き合いも、したいことのしたくない部分も、していないながらにしていたし、できていた。何もしていないと思いながら、何でもできていた。と言っても、もちろん「何でもはできないわよ。できることだけ。」 でも、していたことはできていたし、できないことをすることをしそうになく、しそうにないことをしない性格も相まって、実質的にできないことが何もなかった。けれども、真の意味で何でもできる人間なんて存在しないから、できないことが何もないことは何もできないことと殆ど同じだと思う。何でもできるより、何かができる方がよっぽど健康的な気がする。

 

これまでの話は、捉え方の切り替えと言葉遊びみたいなもので、ネガティヴな人間が生み出した宗教だ。今の私だけのもので、過度に縋るべきではない。が、それでもすぐに取り出せるようにはしておきたい。